福岡国際マラソンが12月1日、福岡市の平和台陸上競技場を発着点とする42.195kmのコースで行われた。吉田祐也(27、GMOインターネットグループ)が2時間05分16秒の日本歴代3位の快記録で優勝し、来年の東京世界陸上参加標準記録の2時間06分30秒も突破。代表有力候補になった。

吉田は青学大4年時に箱根駅伝4区の区間記録を樹立し、チームの総合優勝にも貢献。20年2月の別大マラソンで日本人トップの3位(2時間08分30秒。当時学生歴代2位、初マラソン歴代2位)、同年12月には今大会前身の福岡国際マラソン選手権で優勝(2時間07分05秒)した。一見、順調に成長してきたように見えるが、吉田の競技人生は苦しんできた期間の方が長かった。だが、その経験が吉田のターニングポイントにもなってきた。

勝負優先が生んだ後半の圧倒的な強さ

吉田の福岡国際マラソン出場の一番の目的は、来年9月の東京世界陸上代表に選ばれる結果を出すことだった。そのためにはまず選考競技会(男子は12月の福岡と防府、来年2月の別大と大阪、3月の東京)の5大会で世界陸上参加標準記録の2時間06分30秒を破ること。標準記録突破者数が3人以上出た場合は、本番への期待度の高さが選考基準になる。つまり“強さ”を見せなければいけなかった。

夏から福岡に向けて準備を始めたが、標準記録をクリアすることへの意識も少なからずあった。だが2時間05分59秒を持つ其田健也(31、JR東日本)やオレゴン世界陸上13位の西山雄介(30、トヨタ自動車)らも参戦してきた。「予想以上に国内トップレベルのメンバーが集まったので、優勝すれば自然とタイムは付いてくると考えました」吉田のその考え方が、想定とは違った32km以降の独走につながった。

先頭集団の中間点通過が1時間02分57秒で、設定よりも20秒以上遅かった。そのタイムを見てペースメーカーのベナード・コエチ(25、九電工)がペースを上げたとき、吉田は少し遅れていた。「中間点のタイムを2倍にしても、2時間06分30秒を切るペースでした。設定より遅かった分、余力を持てている」。吉田はリズムを守りながら23kmで追いついた。6人の先頭集団の25kmまでの5kmは14分46秒で、20kmまでより19秒ペースアップしていた。

そこで力を使った選手たちが次々に遅れ、30kmでペースメーカーのコエチが外れると、吉田とタデッセ・ゲタホン(26、イスラエル)のマッチレースに。そして31.6kmの折り返しを過ぎると吉田がリードを奪い始め、残り10kmを独走した。

独走になってもフィニッシュタイムのことは考えなかった。「中間点通過が遅かったですから。3分を超えなければいいな、というくらいで自分のリズムを維持するだけでした」。その結果が、1時間02分20秒という驚異的な後半のタイムになった。

日本人選手の2時間4分台は、鈴木健吾(29、富士通)の2時間04分56秒(日本記録)だけ。そして2時間5分台が7回出ている。つまり2時間6分未満は6選手が8回走っているが、吉田の後半はその中でも最速タイムだった。この後半の“強さ”は、世界大会を戦うときの大きな武器になる。

大学3年まで箱根駅伝に出場できなかった悔しさで自己改革

吉田といえば青学大3年時まで箱根駅伝に出場することができなかった。普通に就職活動を行い大手企業から内定が出ていたが、箱根駅伝と別大マラソンの結果で競技続行を決意した。卒業1カ月前の決断だったが青学大の原晋監督とともに内定企業に謝罪に行き、逆に激励を受けたエピソードが知られている。

高校(埼玉県・東農大三高)時代もインターハイ全国大会に出場できなかった。トップ選手の中では遅咲きの部類に入る。その吉田が自身のターニングポイントに「大学2、3年時に11番目で(10区間の)箱根駅伝を走れなかったこと」を挙げた。チーム内の競争を勝ち抜けなかったが、「自分自身の問題であって、それが変わるきっかけになったと思います」。

GMOインターネットグループに入社した1年目の取材では、朝練習後に1時間半、本練習前に1時間半、本練習後に1時間半を準備や身体の手入れに費やしていた。1日の練習時間は短くて7時間、長ければ9時間になった。

すごい練習をしてオーバーワークで調子を崩すか、練習量を減らすかの選択を迫られたときに、練習をやっても疲れない体、壊れない体を作るにはどうしたらいいか、という方向で考え始めた結果だった。

吉田も当時「時間よりも内容が問題なんです。内容を突き詰めた結果がその時間になっただけで、20分でできるなら20分で終わらせた方がいい」と話していた。実際、福岡国際マラソン後に原監督が話した時間は少し違っていた。練習時間はその時々の状況や考え方で変化するが、とことん突き詰める吉田の性格が表れていた

大迫スタイルと青学大の融合で、世界大会での“大迫超え”が目標に

もう1つのターニングポイントに吉田が挙げたのが、大迫傑(33、Nike)と米国で合同トレーニングを行ったこと。大迫は21年に開催された東京五輪マラソンで6位入賞。5000mの日本記録保持者で、16年リオ五輪には5000mと10000mで出場していた。

「大迫さんとゲーレン・ラップ選手(38、米国。ロンドン五輪10000m銀メダル、リオ五輪マラソン銅メダル、東京五輪マラソン8位)と何度か合宿しました。そもそも自分にとって大迫さんはすごい存在でしたが、その大迫さんはラップ選手のことを『すごい』と言っていました。あれぐらいやらないと世界と勝負できないんだと痛感させられましたね。自分が頑張って目指す先にこの人たちがいるのだと理解できたんです」。

その2人は世界トップ選手が集まっていたナイキ・オレゴン・プロジェクトに所属した期間が長く、同じ練習のスタイルだった。しかし吉田は、「同じやり方ではなく、自分のやり方を見つける方がいい」ということも徐々に感じ始めた。

22~23年はしっかり練習ができたと感じても、マラソン以外の種目も含めレースで結果が出なかった。「練習のための練習になっていたのかもしれません。マラソンのスタートラインに自信を持って立てていませんでした」。

23年10月のMGC(マラソン・グランドチャンピオンシップ。パリ五輪代表3枠のうち2人が決定)で50位と大敗し、今年1月から練習拠点を青学大に移した。学生時代と同様に、原監督が立案するメニューで練習を行い始めた。2月末の大阪マラソンで2時間06分37秒(4位。日本人3位)とすぐに自己新記録が出た。

練習は学生と一緒に走ることが多いが、まったく同じではない。吉田の判断でプラスアルファで走っている。原監督によれば「(それなりに速いペースで)16km走を行った次の日に必ず30km、35km、場合によっては40km走ったりします。朝練習で20km走って、午後はフリーにしてもまた20km走ったりする選手なんです」という。

吉田は22〜23年に結果が出なかった時期も、気持ちは折れかけたが耐えることができた。その理由に「走ることが好きだから」ということを挙げている。原監督も「走ることが好きな子なので」と“強さ”の要因だと感じている。

吉田にとって「“自分のやり方”が青学大でした」と言う。もちろん、大迫との練習で学んだこと、競技やトレーニングに対する姿勢を生かしている。「大迫さんと練習して、ハードなトレーニングに向けて、どう自分に向き合っていくか、という姿勢は学生と練習する今でも生かされています。その両立が自分にとっては一番重要です」。

福岡の記録で吉田は、大迫の自己記録の2時間05分29秒(20年東京マラソン。当時の日本記録)を上回った。だが「勝つことにこだわったレースで大迫さんの記録を超えられたことは嬉しい」としながらも「まだ勝った感じはしません」と吉田は言う。「世界大会の日本代表に選ばれたとき、その大会で大迫さんの順位(東京五輪の6位)を超えることが、一番の目標になります」。青学大の練習のノウハウと大迫のスタイルを融合させた吉田の挑戦が、日本マラソン界の大きな力となる。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)

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