交流サイト(SNS)の浸透を背景に、戦争は、人々の考え方の主体となる「脳」を巡る争い「認知戦」に発展しつつある。「人の脳が戦場になる」とは、どういうことなのか。ロシア・旧ソ連諸国を専門とする軍事研究家で、安全保障問題に詳しい小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター准教授(42)に聞いた。(聞き手・滝沢学)

脳を巡る争い「認知戦」について語る小泉悠准教授=東京都目黒区の東大先端科学技術研究センターで(坂本亜由理撮影)

認知戦 人の脳など「認知領域」を標的にした戦い。世論の誘導や敵対勢力の撹乱を狙う「情報戦」の一つ。マスメディアを通じたプロパガンダ(宣伝)の流布だけでなく、SNSなどで刺激的な情報発信を繰り返し、人の頭の中に直接働きかけて考え方を先鋭化させ、対立をあおって社会を弱体化させる。陸海空や宇宙、サイバー空間と並ぶ6番目の戦闘領域として「認知領域」が捉えられ、各国で研究が進む。日本では2022年の防衛白書で初めて「認知戦」の用語が登場した。

◆人は簡単には洗脳されないが…

―脳が標的となる認知戦では、何が起きるのか。 「人は簡単には洗脳されない。例えば、日本人の頭の中が、ロシアや中国の思い通りに何かを信じ込まされてしまう、というのは難しい。ただ、交流サイト(SNS)は人がもともと持っている偏見や思想を先鋭化させることはできる。右寄りの人はより右に、左寄りの人はより左に。差別的な人はより差別的に。アナキスト的な人はよりアナキスト的に。それぞれの世界観を持つ人たちに、あたなが言っている通りですと、その証拠とされるものをたくさん突きつければいい。考えを先鋭化させるのは簡単。そうなると、社会の中で対話ができなくなってしまう。認知領域戦の一番のキモは、話を通じなくさせることだと思う」 「(ラジオやテレビ、インターネット、SNSなどコミュニケーション手段の発達など)情報戦の破壊力を引き上げるような出来事が、20世紀の終わりから相次いでいる」

インタビューに応じる東京大学の小泉悠准教授=東大先端科学技術研究センターで

小泉悠(こいずみ・ゆう) 1982年、千葉県生まれ。民間企業勤務、外務省専門分析員、未来工学研究所特別研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター准教授。ロシアの軍事政策のほか、人間の認知を標的とした情報戦など安全保障の新領域分野の研究も進める。主な著書は「ウクライナ戦争」、『「帝国」ロシアの地政学』(2019年、サントリー学芸賞受賞)など。ネットでは「ユーリィ・イズムィコ」のペンネームで知られている。

◆核兵器の登場で戦い方に変化が

―認知戦の源流は、どこにあるのか。 「第2次大戦後の核兵器の登場と結びついている部分が大きい。戦後直後から、旧ソ連に対する封じ込め戦略で知られる(米外交官で国際政治学者)ジョージ・ケナンは『核兵器の登場で、もはや(物理的な)戦争はできない。しかし共産主義とは相いれない』として、情報戦や外交戦、法律戦といった、現在われわれが言っているような話の原型に言及した」 「(ソ連共産主義体制の打倒を唱えて南米アルゼンチンに亡命した)ロシア帝国の元軍人エフゲニー・メッスネルも戦後直後から、ケナンとそっくりのことを言っている」 「また1960年代にベトナム反戦運動が起き、国家より個人が上位にくる時代に、テレビやラジオが情報を届け始め、情報が武器になる、との考えにつながっていったと思う」

◆ロシアの「認知戦」は2010年代から

―認知戦が生じた背景は。 「わたしの専門のロシアでは、対米関係の悪化に伴い、特に2010年代から西側が認知戦を仕掛けているとの危機感が強まり、同じことを自国もできるようにと模索し始めた」 「一方、米国は(1975年まで続いた)ベトナム戦争で、国内外の世論を敵に回した反省があった。イスラエルも、それ(世論対策)で失敗しているとの議論が2000年代の初めくらいから出てきた」

ウクライナで起きたオレンジ革命で、首都の独立広場を埋め尽くしたデモの群衆。隣国ロシアは、欧米の扇動による体制転換の脅威を受けてきたのは自国や友好国との立場を取る=ウクライナ・キーウ(キエフ)で2004年11月(滝沢学撮影)

◆戦争は物理的な戦いと認知戦などを組み合わせた「ハイブリッド」に

「そうした多くの事例や理論を基礎に、米国は対策を練ってきた。情報の力が強まった世界でいかに非難を受けずに戦うのか。情報戦やテロ、誘拐など、普通ではない手を使ってくるであろう敵にいかに対処するのか。そして2000年代に、認知戦の考え方も取り入れ、海兵隊出身のフランク・ホフマンらが、全海兵隊員が参照できるようまとめたドクトリン(教書)の名前が『ハイブリッド戦争(hybrid warfare)』だった」 「(物理的な破壊を伴う戦闘とサイバー戦、情報戦、心理戦などを組み合わせた)ハイブリッド戦争という言葉は、ロシア軍の用語だと思われることも多いが、最初につくったのは米軍だった。相手にいかに負けないようにするか、重視したのが情報の力だった」 「(米欧の軍事同盟)北大西洋条約機構(NATO)加盟国や同盟国は、2014年にラトビアの首都リガに『NATO戦略的コミュニケーションセンター』を設置し、偽情報研究の中心になっている。圧倒的に気にしているのは、やはりロシア発の情報だ」

◆陰謀論を信じやすい人は…

―認知戦で狙われる一般市民は、どういう人たちか認知戦の研究の中で、権威や公的機関が言うことは全く信じないという人たちが狙われやすい、陰謀論を信じてしまうという傾向があると思う」 「また、SNSは、極端な考えを持つ人々が出合う場所にもなっている。そういう人たちを組織化して情報戦の道具にしよう、と戦略家は考えると思う」

ロシア側から今年1月31日、解放されたウクライナの捕虜=ウクライナ大統領府のサイトより

◆日本政府は襟を正せ

―日本政府に求められることは。 「仕掛けてくる側は、われわれが暮らす社会の公正さに疑問を抱かせるような情報を流してくる。一番嫌なところを突いてくる。だから日本の政府や社会が、陰謀論にお墨付きを与えるようなことをやらないことが大事だ」 「日本の政治とカネの問題とか、沖縄の基地負担、日米地位協定の不平等性とか。例えば、ロシアのプーチン大統領は、『沖縄こそアメリカが日本を占領している証拠である、日本がアメリカの従属国である証拠である』と、たびたび言及する。実際に沖縄行ってみたら分かるが、実際に不平等な状態に置かれている」 「こうした問題について、日本政府が自身を正さずにいると、他国が仕掛ける陰謀論やプロパガンダにお墨付きを与えてしまう

「認知戦」対策について語る小泉悠准教授=東大先端科学技術研究センターで

―個人レベルで必要なことは。 「突かれる弱点を減らす意味でも、自国の政治や社会について何でも不平不満に思うのではなく、民主主義的な価値観や言論の自由など今持っている『いいもの』を自己評価することも大事だ」 「同時に、ネット上にあふれる情報を解釈するため(情報を整理、分析する)『処理装置』を頭の中につくる必要がある。本を読み、旅行に行き、いろいろな人の話を聞くなどして、情報を自分なりにどう受け止めるかの軸になるものを持つべきだ

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