◆「軍トップ」がクーデター呼び掛け
ウクライナ政府の偽情報防止センターが公開したザルジニー前軍総司令官の偽動画。ロシアによる偽情報だとして注意を呼び掛けている
「ゼレンスキー(ウクライナ)大統領は、国家の敵だ。国民はそれぞれの町の中央広場に集まり、ウクライナ軍の兵士は直属の指揮官の指示に従わず首都キーウに集まれ」 2023年秋、ウクライナ国旗の横に立った軍服姿の男が、クーデターを呼び掛ける1分ほどの動画がSNSを駆け巡った。男は、当時のウクライナ軍トップ、ザルジニー総司令官だった。 これに対し、ウクライナ政府の「偽情報防止センター」は同年11月8日に偽動画だと発表。本物と見分けがつかないほど巧妙な「ディープフェイク」だとしたうえで、ロシア側が旧ツイッターの「X」やテレグラムなどのSNSで拡散していると分析。「このような偽情報を流すことで、国民にパニックをまき散らし、政府と軍を分裂させようとしている」と注意を呼び掛けた。 しかし、その後も「ザルジニー氏」が「予想通り、ウクライナ政府はロシアによるプロパガンダだと主張し始めた」と語る偽動画が出回るなど、本物が語っていると思わせようとする執拗な「攻撃」が続いた。◆火のないところに煙は立たず
巧妙だったのは、当時、実際に、ゼレンスキー氏とザルジニー氏の確執が取りざたされていたタイミングを狙ったことだ。 偽動画が出回る直前、ザルジニー氏は英誌エコノミストへの寄稿で「戦況は足踏み状態にある」と指摘し、ゼレンスキー氏が否定。多くのメディアが両氏の不協和音を報じた。 ウクライナ政府が事前に、ロシア側に利用される懸念があると警戒する中での「攻撃」だった。 世論の誘導や撹乱を目的とした情報戦は戦争の常とう手段。中でも認知戦は、敵対勢力の間で実際にくすぶる対立や不満の火種に着目するケースが多い。 デジタル技術も背景にディープフェイクやSNSなどを駆使し、刺激的で扇情的な情報を大量投下。人々の頭の中にある「物事のとらえ方」を極端にし、対立意識を増幅していく。行き着く先は、異なる考え方を持つ人々を敵視し、対話もしなくなる社会の分断だ。◆アメリカ分断の背景に「認知戦」の影
典型的だったのが、ロシアが2016年の米大統領選でSNSを通じて仕掛けた「戦争」だった。 米上院情報特別委員会が2020年にまとめた報告書などによると、トランプ前大統領を当選させるため民主党を中傷しただけでなく、人種差別や移民問題、銃を持つ権利、同性愛など米国社会で議論の分かれるテーマについて大量の政治広告を投稿した。SNSの政治広告 フェイスブックやツイッターといったSNSの利用者に、候補者や政党、政治団体などから送られる動画やメッセージ。米国の選挙活動では一般的に利用されている。候補者の人物紹介から、政策、対立候補への攻撃など内容はさまざま。利用者のSNSの閲覧履歴に基づき、好みや性格、政治信条を分析したうえで、志向に合った広告が送られてくる。
米上院情報特別委が2020年に公表した報告書。米大統領選でロシアがとった情報戦は「考えられていたより複雑で戦略的な攻撃だった」と指摘している。
移民の規制に関心がある有権者には、不法移民の危険性をアピールした動画を配信し、対立政党の無策を批判。女性の権利に関心がある有権者には「対立候補は女性を蔑視している」と中傷する内容を表示する。 報告書は「ロシアの広範で洗練された、そして現在も進行中の情報戦の一部で、米国の政治と社会に不和をまき散らすためだった」と指摘している。 狙い通り、米国では保守派とリベラル派の対立が激化した。2021年には大統領選に敗北したトランプ前大統領の支持者が議会を襲撃する前代未聞の事件に発展。トランプ氏は選挙で不正があったと訴えた訴訟はほぼすべて退けられたのに、今もバイデン現大統領が不正に当選したという陰謀論を信じる国民は多い。 議会では共和党と民主党の対話が成り立たず、機能不全に陥っている。このため、ウクライナへの軍事支援を盛り込んだ緊急の予算案が成立せず、今年初めに支援が停滞するなど国際情勢にも影響した。刑事事件に問われたトランプ前大統領を巡り、対立する支持者(右側)と反対派=2023年4月、米ニューヨークで(吉田通夫撮影)
◆台湾でも
日本の防衛研究所によると、中国も認知戦を活発化している。最も顕著に表れているのが、統一を目指す台湾に対してだ。 今年1月の台湾総統選に絡み、SNSでは中国と距離をとる与党・民進党の頼清徳(らいせいとく)氏を「政治スパイだった」と中傷するなど大量の偽情報が拡散した。 台湾メディアによると、当時の呉釗燮(ごしょうしょう)外交部長(外相)は総統選前のイベントなどで、中国による認知戦だとして批判。台湾の世論を操作しようとしていると強調したという。 中国は、「制空権」のように、脳を支配する「制脳権」という概念も導入。電磁波や神経剤などを利用して敵対勢力の脳を直接コントロールする技術にも注目しているという。◆日本の備えは
米国も、ロシアによる米大統領選介入に危機感を強め、2017年ごろから認知戦への対策を一段と強化した。機密情報を意図的に開示し、敵対勢力が流す偽情報の威力を弱める手法もとっている。 欧州各国とつくる軍事同盟「北大西洋条約機構(NATO)」は戦略文書で、戦争が物理的破壊から社会や考え方に対する脅威に変化していると危機感を強めている。 日本では、2022年の防衛白書で初めて「認知戦」の用語が登場し、同年末の安全保障関連3文書の改定で対策強化を打ち出した段階だ。◆「政府は自らを正せ」の意味
出遅れの目立つ日本にとって、必要な対策は何か。 小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター准教授は「認知戦を仕掛けてくる側は、われわれが暮らす社会の公正さに疑問を抱かせるような情報を流してくる」と指摘。政府に対し、国民から不公正だと思われるような政策を正すべきだと説く。認知戦について語る小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター准教授
例えば「政治とカネの問題や、沖縄の基地負担、日米地位協定の不平等性など」。 政治家は一般国民や企業と違って不透明な会計処理を許されているのではないか…。 沖縄県に米軍基地の負担が集中しているのは不公平ではないか…。 日米地位協定は米国にとって有利すぎる…。 国民の間にくすぶっている不満や対立の火種を増幅させ、社会を分断させるのが認知戦。 小泉氏によると、ロシアのプーチン大統領は「沖縄こそアメリカが日本を占領している証拠である、日本がアメリカの従属国である証拠である」などと、沖縄問題に言及するケースは増えているという。そして「実際に沖縄に行けば分かるように、不平等な状態に置かれている」と指摘する。 「こうした問題について、国家が自身を正さなければ、他国が仕掛ける陰謀論などにお墨付きを与えてしまう」。小泉氏は、国民の間で不公正と受け止められる問題について、その不公平感や不満を強引にねじ伏せるのではなく、是正に取り組むべきだと指摘した。 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。