出来上がったネクタイ。日本らしい青海波柄は根強い人気がある=京都市上京区

日本が誇る京都の伝統工芸、西陣織。高級帯や着物のイメージがあるが、実はネクタイも主力生産品の一つだ。紳士の「オシャレ」からサラリーマンの「制服」、そして「クールビズ」へ。ネクタイを取り巻く時代の移り変わりの中で、生き残りと進化を図る老舗の現状に迫った。

有数の産地

「ガシャンガシャン」という音とともに織機(しょっき)から繰り出される布地を職人がじっと見つめる。視線の先にある織の精緻さに、ネクタイ生地であってもそれが「西陣」であることを認識させられる。

力織機から織り出されるネクタイ生地

意外にも京都は国内有数のネクタイ産地だ。東京ネクタイ協同組合の調査によると、令和3年の主要産地別の生産額で西陣は国内2位。京都府北部の丹後も合わせると、生産額の合計で1位の山梨を上回る。

国産ネクタイ生地製造の歴史をひもとくと、明治期の西陣に行き着く。

タイヨウネクタイ(京都市上京区)は、西陣織ネクタイの製造販売を手掛ける明治40年創業の老舗だ。3代目である現社長の長女で、取締役の松田梓さん(43)が工場内を案内してくれた。

貯蔵されている糸は400色以上に及ぶ。ネクタイなので青系統が多いという

工場に貯蔵されている絹糸は400色を超える。仕入れたままの糸は束状のため、織機で使えるように糸枠に巻き取る「糸繰(いとくり)」という作業が必要だ。工場の隅では木製の糸車が連なり、くるくると回り続けていた。

力織機を確認する職人

工場には昔ながらの人力の手機(てばた)1台に加え、ジャカード織機や力(りき)織機と呼ばれる機械式の織機6台などが置かれている。かつて力織機は紋紙(もんがみ)と呼ばれるパンチカードで制御していたが、今はパソコンからデータを送る。手機よりはるかに生産効率の良い力織機だが、糸が切れるなどのトラブルに備えて目視での確認が必要だ。この日も2人の職人が数台の力織機を見て回っていた。

「これが本来のネクタイの織機のパワーなんです」。松田さんが色とりどりの華やかな生地を見せてくれた。オレンジ色に見える部分は、よく目をこらさなければわからないほど細い赤と黄の糸で織りなされている。ネクタイ生地は「西陣の技術が小さくまとまった集大成」(松田さん)。西陣のさまざまな技法を引き継いでいる上、糸が細いためより繊細で解像度の高い模様を織り出せるからだ。ネクタイ生地は西陣で作られ始めた当初、新たな織の技術と認識され「ネクタイ織(おり)」と呼ばれていたという。

華やかな「ネクタイ織」。赤と黄の糸でオレンジ色を表している

老舗の挑戦

一方で、業界を取り巻く環境は厳しさを増す。バブル崩壊やクールビズの浸透などを背景に、西陣のネクタイ出荷額はピークの10分の1以下にまで落ち込んだ。松田さんは10年ほど前に入社したが、その直後に最大の取引先だった問屋が倒産。そのころ同社は問屋からの注文による生産が中心で「下請け化していた」(松田さん)という。

危機感を抱いた松田さんは、同社と「ネクタイ織」の技術を後世へと残すために精力的な取り組みを続けてきた。

かつて一世を風靡したという玉園織

一つは「玉園(たまぞの)織」の復活だ。西陣のビロードを改良した玉園織は、立体的に浮き出る柄が特徴。先代社長が開発し一世を風靡(ふうび)した。しかしネクタイは次第にサラリーマンの「制服化」(松田さん)。技巧をこらしたオシャレさよりも身に着けやすいスタンダードさが求められるようになるにつれ、玉園織のカタログも倉庫の奥でほこりをかぶるようになっていた。

「ネクタイ織」を後世にという松田さんの取り組みは、単なる技法の復古に限らない。松田さんは今、綿や合成繊維といったこれまで西陣で使われてこなかった素材を導入し、ネクタイ織の技術でネクタイ以外の製品も作る、テキスタイルメーカーへと同社を脱皮させることを模索している。だが絹糸とは勝手の違う素材は、ノウハウを一から研究する必要があるという。

西陣の先人が、初めて舶来のネクタイを手にした明治のあの日のように。「また、見よう見まねからの出発です」。松田さんはそう言って笑った。(荻野好古、写真も)

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